鬼怒川と小貝川
鬼怒川は、栃木県北西部の奥鬼怒山の南麓、奥鬼怒沼を水源とし、川俣温泉を経て、川治温泉で湯西川を合わせ、南流して、中禅寺湖からの大谷川と合流する。東流して、氏家あたりで南に向きを変え、真岡、下妻に至り、東方を流れ下る小貝川を合流する。
現・塩谷町佐貫から下流側は、平野部に入って扇状地を形成し、現・さくら市氏家辺りからは氾濫原が広がっており、西側は現・鬼怒川流路、東側は五行川あたりまでで、洪水により流路が変化していたと考えられる。
天平宝字2年(758)に毛野川(鬼怒川の古称)の洪水で、関本(現・筑西市)と鎌庭(現・下妻市宗道付近)間で変流した記録がある。こうした洪水被害を防ごうと、神護景雲2年(768)、大渡戸(八千代町)から桐ケ瀬(下妻市)間に新河道約3キロが開削された。このとき、常陸国と下総国の境界は、旧河道によることとされた。
承平年間(931~937)の下妻より下流では、鬼怒川が次のように二筋に別れていた。
東流は、糸繰川として、鬼怒の流れが小貝川を合流していた。ある時期まではこれが主流。
南流は、現・鬼怒川河道であり、小絹に至ってから小貝川を合流していた。
東流の小貝川合流点の小貝川上流側に騰波ノ江(鳥羽の淡海)があり、万葉の時代から歌に歌われた。「常陸国風土記」筑波郡の条での記載もある。
万葉歌人の歌
「つくばねのもみぢちりしく風吹けば、とばの淡海に立てる白波」
常陸風土記
「郡の西十里に騰波江あり、長さ二千九百歩、広さ一千五百歩なり。東は筑波の郡、南は毛野河、西と北とは並に新治の郡、艮(うしとら、北東)のかたは白壁の郡なりし」
江戸時代に入って、慶長13年(1608)、鬼怒川と小貝川の分離が施工された。前述の下妻での東流が締め切られ、下妻市の砂沼、糸繰川がその名残で、合流点には、現在、小貝川ふれあい公園が現存する。ここより南側の氾濫原は、新田開発がなされた。
一方、南流する鬼怒川は、水海道での南、細代で約1キロ東流し、寺畑で再び、小貝川と合流していた。そこから南東に流れ、竜ケ崎を経て、河内村生板で常陸川に合流して、香澄流海(霞ケ浦)を経て銚子で太平洋に注いでいた。
寛永元年(1624)、伊奈忠治により、水海道での小貝川分離工事が行われた。水海道から南に常総台地を約6km開削し、相馬郡大木村で常陸川に合流させたのである。更に、寛永7年(1630)には、小貝川の常陸川合流点を西に付け替えて、合流点は、利根町と取手市小文間の間となった。この時期、利根川の東遷となる赤堀川開削が進行していた。
この2回の分離によって、流域の水田が開発された。それらの農業用水のために、小貝川に3つの堰が設置された。